僕は自傷行為を見るのもやるのも嫌です。当たり前のように思えますが、これが癖になってて、
「また切っちゃった」という人も珍しい事ではないといいます。もし自分の子供がそういう行為に走ったら親として何をしてやれるのだろうと思います。自傷行為を自慢気に話す人もいます。「またリスカしちゃってさぁ」といった具合です。心の傷が増えて、深くなる毎に何か脳内の快感物質が分泌されるのかもしれませんね。切ると落ち着く、といった様な。まして僕は血を見るのが大の苦手。とてもではないですが手首だの腕だの切る勇気はありません。ある種の尊敬すら抱きます。
昔のテレビは良く「カメラがとらえた決定的瞬間!」「衝撃映像!」など、ノンフィクションの事故、事件を扱った番組がありました。人が死ぬというシーンをいともたやすく扱っていました。そういうものが残酷だということで、徐々にその手の番組はなくなっていき、バラエティー色の強い内容に変化していったように思います。
これは果たしていい事なのでしょうか?公開処刑など古代・中世期から人の死を見せるという行為はありました。それは見せしめという意味合いもあるでしょうし、今後の教訓としてわざと怪我するところを見せたりするということは行われていたのです。今でも自動車免許の更新時にVTRを見せられますね。
死亡事故や殺人事件など、卑劣で残酷な出来事は今も昔も変わらず存在します。死なないまでも重大事故や、殺人未遂などはもっとたくさんあると思います。それらに蓋をして、まるでなかったかのように扱うのはどういう意味があるのでしょうか。
最近は手錠をはめているシーンでもボカシが入っていたりします。視聴者のどこにそれを訴えたいのか、どういう意味があるのか、僕にはわかりません。あるとすれば、それはやはり自傷行為や自殺行為を見せないということではないかと思います。自傷するという行為・・・自殺するという行為・・・これらは大体密室で行われるものです。悲しい行動だと思います。決して人に見せびらかすような行為ではありません。でも現実にそういう事実は後を絶たないのです。そして世の中の人間はそれに対してこれといった答えを出せずにいるのです。
こういう番組、ドキュメンタリーを見せる事で、自殺や自傷の予防にはならないでしょうか。
きれいごとや半端な慰めよりも
「こういう世界があるのだ」という現実を見せる事で、世の中には苦しんでいる人がいる。それを知ってもらおうとする。命は儚く、一瞬でそれは消えてしまう。
それは事実であり、毎日どこかで誰かが傷付いている、灯が消えてゆく。それは家庭のせいなのか、本人のパーソナリティー・・・自覚の問題なのか、帰属する学校や会社のせいなのか、世の中が悪いのか。その答えを探しても見つからない。それが年間自殺数20000人以上の日本が抱える社会的病理なのだと思うのです。
そんな思いを「回りくどい表現」で表現することが本当の歌なのか?とアマチュアミュージシャンの僕は考えてしまいます。何も人が傷ついたり死ぬところをリアルに表現することが目的ではありません。事実としてそこに至った考えや背景、環境について掘り下げていく行為は、決して目を背けてはならないと思うのです。それを扱った楽曲のいうものはあまり多くはありません。でもそれを語り続ける義務は私達残された者の行為なのではないかと思うのです。
死刑は密室で行われます。踏板が外れて落下した死刑囚の首は30cm伸びるそうです。見るに堪えない残酷な行為だと言われ直視できないといいます、それま確かにそう思います。でもその人は無情にも人を最低1人以上は殺しているのです。無辜な人を殺す。あるいは傷つける。金のための強盗、性欲を満たすための強姦、カタルシスを得られると言われる放火・・・これらの行為は死刑になる確率をグンと上げます。
こんな世界が日本で、世界で行われている。民族争いの虐殺、差別による殺人、領土の奪い合い、人間は少しも進化しておらず、進化したのはスマートフォンくらいではないでしょうか。そんなスマホの中でもいじめやハラスメントが行われ、傷付く人がいる、命を絶つ人がいる。こんなバカげたことがあっていいのでしょうか。最も進化した物質を使って、最も原始的な残虐行為に走る。古代に自殺や自傷は無かったとしても裏切りや共食いなのはあったでしょう。
これらの行為を伝えていかなくては、人類はまた同じことの繰り返し。不況が我々を襲い続けています。賃金が数十円、数百円上がっても、物価は2倍3倍になっていく。増え続ける失業者。胸を張って働ける仕事は増えたといいますが、それは派遣労働が増えただけのことで、いつ首を切られるか、契約してもらえなくなるかを考えると夜も眠れず、メンタルクリニックはいつも予約でいっぱい。
これを歌として表現が出来るのは、多分僕くらいの人間しかないのではないかと思います。皆幸せになりたい。でも幸せって何でしょうか?死なない事でしょうか?ごはんが食べられることでしょうか?仕事にありつけることでしょうか?かっこいい、かわいい異性と一緒にいられることでしょうか?
副業が増えています。これは将来への不安の裏返し、現状の自分への投資によって、将来の安寧を得る。そういう考え方をした時に、国は何をしてくれたのでしょう?それが今の流れだと、指くわえていただけではないでしょうか。誰もが安心して暮らせる社会。それを作る義務があり、それを達成させることが出来るのは唯一国の力だけなのです。
僕はこれらのことを歌に託して、後世に残しておきたいと思っています。これが人間のありの姿であり、慣れの果てであると。その中で市井の人々がどんな暮らしを送り続けて来たかを、知らせておく必要があります。心の自殺、心の自傷から、本当の自殺や自傷に走らないためにも。
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